BSE(狂牛病)に始まり、ここ何年かで新しい病名をいくつか覚えてしまったと思っておられる方も、少なくないだろう。SARS(重症急性呼吸器症候群)もそう、鳥インフルエンザもそう、人に感染する可能性が指摘されるたびに、マスコミはかまびすしい。そんな話題があがるたびに、仕事柄、「狂犬病」のことを思わずにはいられない。鳥インフルエンザの話題で持ちきりのさなかに、農水省はこんなプレスリリースをしている。
平成16年3月23日 農林水産省 プレスリリース
−幼齢犬の輸入自粛要請について− |
「本年中を目途に、狂犬病予防法に定める犬等の輸入検疫を見直す。それまでの間については、狂犬病の侵入防止のため、狂犬病の清浄地域以外の地域からの4ヶ月齢未満の犬の輸入を自粛していただくよう、ご協力を要請する。」
米国産牛肉の輸入規制といい、この自粛要請といい、島国日本の地の利から様々な感染症に侵入されずに済んでいた時代から、経済のグローバリゼーションが病気のグローバリゼーションに直結する時代となり、それを何とか回避しようと躍起になっている姿が浮かび上がる。そう、「テロ」も「狂犬病」も、日本国内は安全とはとても言っていられないのだ。
次のカルテはと手に取ると、柴犬のさくらちゃん、5歳。「狂注」とメモがはさんである。4月に入り、狂犬病予防注射の季節が来たのだとあらためて思う。さっそく診察室に入ってもらうと、いきなりお母さん、
「先生、こないだ射ってもろた思たら、もう1年や。早いわー。」
「うちの子ヤンチャやろ、これだけは射ってもろとかんと、近所の手前まずいから。」
そういう理解で良いのか悪いのか、確かに世間様的にはそうも言えるのかもしれない。
「お母さん、ご近所さんの手前というだけではなく、ご自身やご家族の方も含め、日本の社会のために射つのが義務なんですよ。それをきちんと果たしていただいているのですから、満点ということですね。」
「せんせ、おだてたらいかんわ。義務言うたって、日本に狂犬病なんて無いんと違うん。」
「確か昭和32年が最後の発生で、それからは出てないですけど、いつ外国から入ってきてもおかしくない状況なんですよ。」
そう言って、日本を取り巻く状況の説明を始めてしまった。
世界的には、毎年数万人が「狂犬病」で命を落としている。日本の近隣では、発生の無い国は無い。表立った輸入と言えども、現在の検疫では不十分と農水は考えているのだし、犬以外の動物をどこまでチェックできるのかも問題だ。「狂犬病」は決して犬だけの病気ではないからだ。猫や野生動物(アライグマ、スカンク、リス、コウモリ、キツネなど)も感染し、感染した動物に人が咬まれると、人にも感染する。ひとたび感染すれば、死亡率はほぼ100%と言われている。アメリカでは、猫にも接種義務があるし、アライグマの接種を義務付けている国もある。
「へー、そうなんや。ほなら、何で日本は犬だけなん。」
「それは、歴史的に日本で狂犬病で亡くなった人は皆、犬に咬まれて感染してるからなんやけど、そうやない状況が起きれば、狂犬病予防法もかわるかも知れへんよ。」
「仮に、狂犬病を持ってる動物が日本に入って来たとしましょうか。潜伏期間中は普通とかわらへんしね。その動物が発病して異常興奮して逃げだしてさくらちゃんを咬んだとしたら大変や。もしさくらちゃんが予防注射を射ってへんかったら、潜伏期を過ぎて発病した時にさくらちゃんの目の前にいてる可能性が高いのは、お母さんか家族の人やから、さくらちゃんに咬まれて狂犬病になる危険が一番高いのは、その飼い主さんと言うことになるでしょ。」
「さくらはヤンチャやけど、家の者は咬まんよ。」
「いやいや、狂犬病になったら見境なんて無いんよ。」
そんな問答をしながら、狂犬病の感染の輪が予防注射をしてくれているワンちゃんでストップするのだから、そのワンちゃん自身の命を救うことになるばかりか、家族の人たちのためでもあり、ひいては社会に蔓延することを防ぐことになるのだと言うことを説明した。
「危機管理いうこっちゃな。」
お母さん、急に社会派の口調になってしたり顔なのだが、
まさにその通りなのだ。
BSEでも、鳥インフルエンザでも、農水は結果的に後手に回ってしまった。しかし、それらの病気とは比較にならないほどの脅威「狂犬病」では、決してそうなってはならない。また、そうならぬように自分たちも協力していかねばならない。それは、動物たちにとっていちばん身近な獣医師が果たすべき最も重要な社会貢献のひとつなのだから。
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