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2006年5月のコラム
「気管虚脱」の話

  今年の4月は本当に雨が多かったように思う。自分が出務した狂犬病集合注射は、なんと雨の確率100%だった。おかげで風邪を引き、体調最悪の4月でもあった。もうすぐ5月の声を聞こうかという頃になってようやく春めいた暖かい日が訪れるようになった。ちょっとした力仕事をしてすこし汗ばむと、ああもうすぐ夏が来ると理屈ぬきにうれしくなってくる。

  けれども、暑くても汗ばむことのできない犬・猫たちにとって、大阪の熱帯地方的酷暑は、きっとうんざりに違いない。汗は乾燥するときに気化熱を奪い、効率的に体を冷却してくれる。それに対して、呼気によって放熱するという体の冷却法はいささか効率が悪い。「ハァ ハァ ハァ ハァ ハァハァ」というパンティングは、夏の犬の宿命なのだが、それゆえの問題を引き起こしてしまう難儀なものでもある。ならば猫は?と思われた方もおられるだろう。西洋には「猫がパンティングするほど暑い日」という言い回しがあるように、もちろん暑ければパンティングするのだが、犬よりはうんと少ない。暑い日中は涼しい木陰でごろごろして動かないからなのかもしれないのだが。

  ところで、中学校だったかで「閉じこめられた流体の一部に圧力を加えると、その圧力は流体のすべてに伝わり、どの面にも垂直に同じ大きさで働く。これをパスカルの原理という。」というのを習ったような気がする。パンティングしている犬の気道にかかる力も、空気という流体を介して伝わる陰圧や陽圧をパスカルの原理に照らして考えてみると分かりやすいのかも知れない。

  次のカルテはと手に取ると、パグの小リキ君、6歳。のどがガーガーいうと問診表にある。診察室はちょうど快適な温度で、冷房も暖房も不必要な状況なのだが、キュッと身を引き締めて「クーラーかけて」と看護婦さんにお願いする。肌寒い冷気が漂いはじめたところで、小リキ君に部屋へ入ってもらう。

  ドアが開くやいなや、颯爽と小リキ君の登場といいたいところなのだが、口を大きく開け、過酸素と思わせる色鮮やかに真っ赤な舌を突き出して、「ハァハァハァハァ」とせわしなくパンティングしながら、あっちへチョコチョコ、こっちへチョコチョコ、こま鼠のように動き回り、最後にはお母さんの足にリードを巻きつけて、お母さんがずっこけそうになりながらの登場と相成った。

  話し始めようと思うのだが、小リキ君のパンティングがすごくて、しかも時々「ハァハァ」が「ガァガァ」にかわる。

  「このガーガーですよね、ご心配なのは?」

と、声を張り上げて尋ねる。そうでもしないと、小リキ君のパンティングの音にこちらの声がかき消されてしまう。

  お母さんも首をたてに振るだけで、ゆっくり話そうという状況にはどうしてもならない。そうしている間も小リキ君のパンティングは続き、診察室の中をちょこまかちょこまかとおもちゃの蒸気機関車のように動き回る。追いたてられるような、あわただしさだけが、ただただ無限に増幅を続けるのだ。

  突然、お母さんが「ちょっとじっとしいや!」と叫ぶなり、小リキ君のお尻を平手で一発。その効果やいかにと思うまもなく、5秒ほどで静寂は破られる。小リキ君の落ち着きの無さは天下一品なのだ。

  「処置室に専用の冷房機のあるケージがありますので、しばらく小リキ君にはそちらで休憩してもらいましょう。」

  そういって看護婦さんに小リキ君を冷房ケージに連れて行ってもらった。診察室にようやく静けさが戻った。まだ何もしていないというのに大仕事をしたあとのようにフーッと吐息が漏れてしまった。

  「ガーガーのことなのですが、短頭種症候群というのと気管虚脱のお話をしましょう。」

  そういって説明を始めたのだった。

  パグやシーズ、ペキニーズなどの鼻が短くて両の目が人間のように正面に並んでいる犬種を短頭種とひとくくりに呼ぶことがある。これらの犬種は鼻の穴が小さく、のどが狭い。呼吸をするときに空気の入ってくる入り口が小さいという犬種なのだ。その結果、様々な呼吸に関する問題が生じてしまう。軟口蓋の過長による「逆さくしゃみ」(2001年3月のコラム参照)や「気管虚脱」、ひいては誤嚥による肺炎や熱中症までもが関連疾患となる。特にこの気管虚脱というのが厄介な代物なのだ。

  からだの中の空気の通り道を気道という。口と鼻の穴から始まり、咽喉頭を経て気管、気管支、細気管支へと分岐し、肺胞へと到達する。肺は胸郭の動きによって引っ張られ、その陰圧は気道の全ての壁に同じ力で伝えられ、結果として開口している鼻の穴から空気が流れ込むということになる。仮に開口部分が無ければ、全ての気道は同じ力で押しつぶされる側に引っ張られる。実際には気道の空気は出入りがあるわけで、閉じ込められた流体ではないのでパスカルの原理そのままというわけには行かないが、空気を吸い込む瞬間の圧力の伝わり方はパスカルの原理で考えれば分かりやすい。

  結局、呼吸をする度に気道の壁には引っ張り力がかかるのだが、気道の入り口が広ければ瞬時に空気が流れ込み気道の前後の圧格差はすぐに解消されるのだが、狭ければ狭いほど流入に時間を要し、格差の解消される間ずっと、気道の壁はその圧力に耐えなければならない。

  そこで、気道の壁の構造を考えてみる。気管を輪切りにしてみるとCの字型の軟骨が内腔を支え、Oの字に足りない部分だけが膜性壁とよばれる軟骨のない膜部分という構成になっている。そこに呼吸の度に圧力がかかるのだから、その圧力が強ければ強いほど、期間が長ければ長いほど、大きな影響を気道壁に及ぼすことになる。

  「ややこしい説明の仕方になってしまってすみません。」

  そういって、理屈っぽい説明を始めてしまった自分をお母さんにわびる。

  「要するに、すぐに興奮したり、ガサガサする子は体温が上がりやすく、しょっちゅうパンティングをする子ということになります。」

  「さらに、短頭種であれば、空気の流入抵抗が大きくなるので、ひとたびパンティングが始まればなかなかおさまらず、気道の壁に大きな力を及ぼすことになります。」

  その結果、気管の膜性壁は引っ張り力よって引き伸ばされ、気管の内腔側へたるんで落ち込むことになる。さらに進行すればCの字の軟骨も変形し、への字に近い状況になる。それは限りなく気道が扁平化し、ひしゃげた状態に近づいていくということなのだ。

  「このような状態を気管虚脱といいます。症状としては、ガーガーであったり、すぐに咳き込んだり、ひどければ呼吸困難に近い状態になってしまいます。」

  「小リキ君も性格といい、犬種といい、まさにこんな状況なのだと思っているのですが、診断にはレントゲン検査が必要です。吸気時と呼気時の気管の径を正確に比較することが必要です。軟口蓋の過長症の診断には麻酔が必要ですので、逆さくしゃみがひどかったり、喘鳴がひどかった場合、手術を前提に麻酔を実施し、喉頭鏡下で肉眼で確認して必要であれば長すぎる軟口蓋をレーザーメスで切除することになります。」

  「気管虚脱の治療ですが、なかなか決定版がありません。手術で虚脱のひどい部分に支えとなるリングを装着しても短期間でその前後の気管が虚脱してきます。どこまで行ってもきりが無いのです。そういう理由で、温存的な治療をお勧めすることがほとんどです。」

  「温存的な治療には、気管支拡張剤を使用して気道の前後の圧格差を小さくしたり、炎症がひどい場合には短期間のステロイド剤を使用することもあります。」

  「咳がひどい場合には、麻痺性の咳止めが鎮静と鎮咳をかねて有用なこともあります。」

  「でも結局は、環境と飼い方が最も重要なんです。」

  「晩春の暖かくなる頃から必要であれば冷房を積極的にかけてください。」

  「それから、むやみに興奮することは避け、運動もほどほどで、食事の与えすぎは禁物。肥満は症状を悪化させる最も危険な要因だからです。」

  「良く分かりました。」と納得と困惑のまじりあった表情のお母さん。

  「どうやってあのガサちんを落ち着かせたら良いのかと思って。。。」

  それは確かに難問なのだ。興奮しやすい落ち着きのない性格そのものの修正は不可能に近い。それでも興奮するシチュエーションをなるべく減らしてもらうよう努力していただく以外にない。

  「それじゃ、レントゲン検査をさせていただきますね。」

  そうお母さんにお断りして、どのくらい興奮がおさまったのだろうかといぶかりながら、小リキ君の居る部屋へと向かったのだった。

(文責:よしうち)
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